2013/02/07
「王羲之の書の写本が見つかりました」。新年を迎えて数日たった日、NHKの9時のニュースが報じたとき、「うわさは本当だった」と思った。東京国立博物館でいま開かれている特別展「書聖 王羲之」で王羲之にまつわる新しい発見が明らかにされるといううわさは、11月ぐらいから耳にしていたが、真偽のほどはつかめなかった。
書聖と呼ばれる王羲之は書道史上最大の巨人である。しかし、真跡は一枚も残っていない。ほぼ正確に字姿をいまに伝えるのは、専門の書家が作成した「摹本」と呼ばれる精巧な写本しかない。かつて清の乾隆帝が「天下無双」とほめたたえ、作品の中に「神」と書き込んでしまった台北故宮所蔵の「快雪時晴帖」も極めて精巧な写本である。
今回の写本はタテ25・7センチ、ヨコ10・1センチの紙に3行24文字が書かれ、「(便)大報期転呈也。知/不快。当由情感如佳。吾/日弊。為爾解日耳」とある。手紙の一部が残った「断簡」で、通常、最初の二文字を取って名前がつけられるので、この写本は「大報帖」と呼ばれることになるのだろう。
今回の写本は7~8世紀の唐代に制作されたと見られるが、当時の日本は奈良時代で、繁栄の極みにあった唐に対して、ありとあらゆるものを学ぼうと、10~20年に一度、遭難の危険を冒しながら繰り返し遣唐使の船を派遣し、中国から多くの文物を持ち帰った。そのなかに書道のお手本となる王羲之の写本が大量に含まれていたとされる。唐の太宗は特に王羲之を崇拝し、多くの写本を作らせたと言われるが、その一部を遣唐使は譲り受けたのだろう。王羲之の写本は天皇家に保管され、後に東大寺などに移管され、順次、民間に下賜されるなどして広く日本社会に流出していった。日本の書道は王羲之から学び、王羲之をすべての基本と考え、発展を遂げてきたのである。
世界に十数作しかないとされる王羲之の精巧な写本が日本に相次いで見つかる理由もここにある。地理的辺境にあった場所(日本)で、地理的中央にあった場所(中国)の文化が、大切に昔のままの姿で守られてきたという構図だ。文化の伝播の面白さはここにある。柳田國男は、日本の各地の言葉遣いや語彙について、遠い地方ほど都(つまり京都)の古い言葉が残っていると語っていた。
現在、日本にある有名な王羲之の写本は「喪乱帖」「孔侍中帖」「妹至帖」など枚挙にいとまがない。特に「妹至帖」は実物を見たことがあって個人的な思い出がある。
2007年11月、香港で、日本の収蔵家が持っていた「妹至帖」が、香港のクリスティーズ秋のオークションで売りに出されたのだ。出品の目玉として注目され、クリスティーズも「起価(競りの最初の値段)」を3千万香港ドルに設定した。ところが2千万香港ドルまでしか応札の声が上がらず、「流標(競売流れ)」となったのである。クリスティーズの価格設定が高すぎたのに加え、写本の質について応札者の間に不安もあったと言われるが、日本の至宝とも言える「妹至帖」の国外流出の可能性に衝撃を受けていた日本書道界は胸をなで下ろした。
それにしても、この王羲之の写本の発見の衝撃について、日本ではほとんどのメディアが東博の公式発表を記事にしたぐらいで、それ以上深掘りした報道におめにかかることはないが、中国、台湾では日本よりはるかに大きな騒ぎとなっていることも面白い。
それは王羲之が書の聖人として圧倒的な知名度を誇っていることに加えて、王羲之の写本の発見という意義の巨大さを理解できる研究者の層の厚さとも関係してるのかも知れない。
日本からニュースが飛び出した途端に、中国や台湾の専門家たちの間で話題になったのは「真贋」をめぐる議論だった。日本では博物館が公式発表すれば世間もメディアも基本的に信じ込んでしまうが、中国ではそうはいかない。書かれている紙が唐代のものとは思えない、という意見もあった。一方で、先に挙げた「妹至帖」と一対、あるいはもともと一つの書で、それが何らの理由で二つに泣き別れになったのではないか、という見解もあった。いずれによせ、そんなことをあれこれ考えながら展覧会を楽しんでみたい。
*国際情報サイト「フォーサイト」で掲載されたものです。