2013/02/23

中国

中国の卓球元世界王者、荘則棟が72歳で亡くなった。訃報というのは悲しい出来事ではあるが、ジャーナリズムにとっては、一人の人生から改めて多くのことを思い巡らせることができる機会という面もある。

荘則棟は前陣速攻という戦法を武器に当時世界最強だった日本卓球陣を打ち破った。卓球選手の部分以上にその人生は政治に巻き込まれた波瀾万丈のストーリーに満ち、「数奇な人生」という使い古された表現すら荘則棟の人生の前には物足りなく感じる。

1971年に日本で開かれた世界卓球選手権。試合会場を移動する中国チームのバスに、敵対する米国人選手が乗り込んできた。当時の中国は米国人と口を利いただけでスパイ扱いを受ける時代だ。凍り付くバスのなかで、周恩来の「友好第一」という言葉を思い出した荘則棟だけが米国人選手に歩み寄り、杭州産の刺繡をプレゼントした。この出会いがきっかけで米中の交流が始まり、ニクソン訪中につながった――。そんな伝説を残した。

だが、それからの荘則棟の人生の方が面白い。ピンポン外交への貢献を評価されて30代でスポーツ担当大臣に抜擢される華やかな道を歩んだが、文化大革命を主導した4人組の逮捕と同時に失脚。投獄までされ、自殺したとの情報も流れた。その間に妻子にも去られ、どん底に落ちたが、80年秋にコーチとして復活し、少年少女たちに卓球を教えた。

荘則棟の妻は日本人の女性だ。卓球大会で中国語の通訳として知り合い、1987年に結婚した。なかなか国の許しが出ず、最後は最高実力者の鄧小平のお墨付きで結婚が実現するという一幕もあった。いささか時代がかったエピソードも、1980年代までの中国ならばあり得たのだろう。特に中国人はこうした「偉大な指導者の寛大な決断で庶民が幸せになる」というタイプの「美談」が好きで好きで仕方ないところがある。荘則棟の自伝「鄧小平批准我們結婚』(鄧小平が結婚を認めてくれた)」がベストセラーになったことは言うまでもない。荘則棟の人生は中華人民共和国建国後の中国そのもののような趣がある。その人生を追いかけるだけで中国の現代史を学ぶことができる。

ところで、荘則棟の派手な活躍の影に隠れてあまり注目されないが、日本卓球協会の会長の後藤鉀二という日本人がいて、彼の決断があってピンポン外交が初めて実現したことも付け加えておきたい。

当時、後藤はアジア卓球連盟の会長でもあった。アジア卓球連盟に中国は加盟しておらず、台湾が加盟していた。世界卓球選手権の前に、後藤は台湾を排除し、中国を加盟させる決意をする。当時の日本はまだ台湾と外交関係があり、中華人民共和国を承認していなかった。後藤は特に左派の人間というわけではなかったが、巨大人口を抱える卓球強国の中国をいつまでも不参加にさせておくわけにはいかない、という考えだった。

後藤は世界選手権を無事終えたあと、翌年の1972年に世を去っている。後藤の決断は周恩来を感激させ、中国では後藤の名声は鳴り響いている。いまでも中国人の卓球関係者は後藤の墓参りに訪れる人がいるというから、中国では後藤は田中角栄のように「井戸を掘った人」として尊敬されている。筆者は「政治と文化」については書くことが多かったが、「政治とスポーツ」も実に奥が深いジャンルだ。

*国際情報サイト「フォーサイト」に掲載したものです。

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