2013/07/12

その他

$私は書きたい

内藤湖南一家の墓地を訪ねた。
実家の「蒼龍窟」からもほど近いお寺「仁叟寺」にあった。
湖南の墓は、その68年間の生涯を終えた京都にある。
こちらは湖南の遺髪を持ってきたようで、墓石にそのように書いてあった。
湖南の墓石は向かって右端で、中央が、湖南の父の十湾、左端が祖父の天爵の墓石だ。

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実に興味深かったのが、仁隻寺の内藤家の墓から20メートルほど離れた寺の中庭に、
戊辰戦争、日清戦争、日露戦争、第二次大戦でそれぞれ犠牲になった毛馬内の人々を追悼する碑文があり、日清、日露のものについては、湖南が撰文を記しているということだ。
そして、戊辰戦争の碑文があることには、やはり象徴的な意味を感じざるを得ない。

内藤家が使えた桜庭氏は、南部藩の支藩のような立場であった。
南部藩はいまの岩手県から青森県にかけた地域を収めていたところで、
明治維新では敗れた賊軍の立場に置かれた。
湖南の父十湾も戊辰戦争に参軍し、官軍となった秋田藩などと戦ったとされる。
明治維新後、毛馬内を含めた鹿角の地域は、岩手から切り離され、秋田県に編入される。
敗北の代償のようなのだろう。桜庭氏は毛馬内を離れ、内藤家は貧窮に陥った。

湖南のなかに垣間見られる権力の主流に対する反骨精神は、
こうした土地柄からすでに芽を埋め込まれていたのではないかと思える。

今回の訪問で内藤湖南先生顕彰会の勝田尚会長の話をいろいろうかがったのだが、
南部人気質についての話がとても面白かった。
いまでも、毛馬内の人は自らを秋田人と思わず、南部人と考えているらしい。
湖南もきっとそうだったのだろう。
秋田師範学校に通い、学校の教師となった若き日の湖南が、突然、姿を消すように上京してジャーナリストとなったのも、秋田にはなじめない南部人の精神が影響したのではないだろうか。

以前、秋田県立博物館に併設されている秋田の先覚記念室を訪ねたことがあるが、
内藤湖南についての紹介コーナーがあまりにも小さく、あっさりしていることに違和感を覚えた。秋田県としても湖南に対して距離感があるのではと考えるのは邪推だろうか。(続く)

© 2021 Nojima Tsuyoshi