2013/07/14
作家・司馬遼太郎は「街道をゆく」の「秋田県散歩 飛驒紀行」の中で、
毛馬内を訪ね、内藤湖南についてかなりの紙幅を割いて書いている。
湖南について、司馬遼太郎はかなりの好感を持っていたようだった。
もともと司馬遼太郎は政治家でも軍人でも明治時代の人に甘いところがある。
湖南の学識について、司馬遼太郎は「常人が到底まねできない、奇跡的なものだった」というようなことを書いている。
私もまったく同感で、湖南の中国美術論や中国文化論を読むとき、いったい日本人がどうしてここまで中国という対象を、ここまで総体的に理解できるのか、まったく想像がつかない。
現代の我々は、メディアを通じて一定の知識は共有され、私も含めて、学者やジャーナリストはそれぞれ細分化された政治や経済、社会などを研究したりしているが、
中国という存在そのものについては、ますます分からなくなっている感がある。
湖南という名前について、司馬遼太郎は「琵琶湖の南の京都に住んでいたからそうつけたのだろうと思っていた」という。私の方は、中国の湖南省に何かの思いがあったからだと思い込んでいた。
そのどちらも違って、十和田湖の南に暮らしていたからだった。
内藤湖南というが、実際の名前は内藤寅次郎で、湖南は号だった。
ちなみに湖南の父の内藤調一も号を持っていて、それは十湾だった。
なぜなら、十和田湖の外周は入り組んだ内湾が多く、合計10の湾があるからだ。
毛馬内の人にとっては十和田湖は特別な、何か霊的な権威を持っている場所だったに違いない。
毛馬内から十和田湖に行ってみたが、思ったより遠かった。
ひとやま登ってから、また下ると、その下りきった場所に十和田湖があった。
カルデラ湖特有の深みのある湖面で、確かに神秘的で、引きつけられる。
琵琶湖とか、八郎潟とか、霞ケ浦とか、そういう湖とはまったく違う雰囲気だ。
この湖のことを心の中で常に意識しながら、
毛馬内の人々が暮らしていることが何となく分かった気がした。
(つづく)