2013/07/16
内藤湖南を6回も書いてしまって、興味のない方には申し訳ありませんでしたが、これが最後です。ただ、取材(見聞)することと、書くことは、やはり別の行為なんだなと思います。書かないと、知識として頭に定着しないのですね・・・
内藤湖南が書いたものには大抵目を通してきたのだが、分からない点が二つあった。
なぜここまで中国理解が深いのか、ということと、ユニークな見解をいつも提示できるのか、ということである。尋常の才能ではないという一言で片付けてしまってはもったいない気がして、湖南について考えるとき、いつもこのことが頭から離れない。
今回、毛馬内を訪ねて、いくつかそのヒントをもらえたように思う。
一つは、毛馬内が、非常に漢学の盛んな場所であったということである。
毛馬内では、折衷学派と呼ばれる系統の漢学の伝統が息づいていた。
漢学には、いろいろな流派があった。毛馬内が属した南部藩は、「朱子学をみとめながらも、かならずしも朱子の解釈にはしたがわず、荻生徂徠の学派に似た実証主義の方向を取っていた」(街道をゆく)。これが折衷学派である。
「鹿角市先人顕彰館」に、一枚の巨大な系譜図が掲げられていた。内藤家のものかと思ったらそうではなく、鹿角における漢学の流れを解き明かしたもので、大変詳しく書かれていた。
湖南の祖父である内藤天爵は、江戸後期の儒学者、朝川善庵に学んだ。朝川は、折衷学を確立した一人である山本北山を師としてた。天爵と同様、毛馬内から朝川に学んだ者に泉沢履齋がいた。この泉沢家から、湖南の父、十湾に嫁いだのが、湖南の母であった。
天爵にせよ、泉沢履齋にせよ、江戸に出ていって学んでいるから江戸遊学派と呼ばれる。
折衷学派の伝統に流れる姿勢は、教科書となる中国の古典の知識を身につけたうえで、それを自由に文献をあさり、自らの解釈によって学問を打ち立てていくべきである、という発想である。
相対する学派は「古学派」と呼ばれた。原典主義である。これに対し、18世紀に折衷学は大流行して日本の漢学界の主流を占めた。「一人一学説」とも言う。これは、文献の海に埋もれてしまう危険もあって、必ずしも後世に影響を残すような学説を発見できるわけではなかった。
しかし、湖南の生涯を考えると、ユニークな学説を次々と世の中に問うている。これは折衷学派の血統を持っているからこそ、と考えることができないわけではない。
よく知られている湖南の学説の最大のヒット作は「唐宋時代区分論」であり、唐代までを中世、宋代からを近世とした。この考え方は、いまでは日本でも中国でも史学区分における主流となっているが、当時はきわめて革新的な考え方だった。
湖南のようなタイプは中国の学問的伝統社会に存在しない。また、時代区分について新しい説を唱えるということを発想することも難しい。折衷学派の伝統が、湖南という人材に出会い、その大きな花を明治に咲かせたと考えることができるだろう。(おわり)