2013/09/03

エンタメ

一昨日の晩、宮崎駿の突然の引退表明で世の中が大騒ぎになったとき、
ちょうど渋谷のTOHOシネマズで、「風立ちぬ」を観ていた。
とても混んでいて、最前列しか空いていなくて、首が痛かった。

宮崎駿がもう撮らないかも知れないということは、
宮崎駿を取り上げた先日のNHKの番組「プロフェッショナル仕事の流儀」を見たときから、
なんとなくそんな気がしていた。だから驚きはない。

ただ、「仕事の流儀」もたまたまつけっぱなしにしていたテレビで流れていて、
なんとなく釘付けになってしまい、けっきょく最後まで見てしまったものだ。
一昨日の偶然といい、なぜか宮崎駿とちょっと縁深くなっている。

「仕事の流儀」で初めて知ったが、宮崎駿は怖い人だ。
傍若無人だし、怒鳴るし、わがままだし、他人に善意をおしつけるし。

それと、映画作りに打ち込んでいる宮崎駿からはき出される言葉の数々に、
かなり打ちのめされた。以下ちょっとうろ覚えだが・・・

「本当に面倒くさい。ああ面倒くさい。でも、大事なものはたいてい面倒くさいんだよね」

「それぞれ生まれた時代のなかで、どこまでできるか、精いっぱい濃密に生きていくしかない」

「前やってきたことをやりたいと思ってない。もっと技術的にややこしいことや、仕立て方が俗受けしないと分かっていることを、やりたい」

「もうなんで風立ちぬを撮りたいかなんて説明してもしょうがない。自分が撮りたい。それだけなんだよね」

72歳でこのテンションはものすごいかったが、
ところどころに「疲れ」のようなものものが感じられた。
何より、「風立ちぬ」という映画は、純粋に宮崎駿が撮りたいものを撮ったもので、
映画監督としてというより、一人の仕事人として区切りがついたから、
引退してもいいという気持ちになったのではないだろうか。

「風立ちぬ」は映像は印象派の絵画のようにきれいだし、飛行機の動きはずばらしくリアルで、関東大震災の群衆の細やかな動きも本当に細やかに作り込まれていた。

しかし、戦時下の戦闘機作りと、時間が限られた男女の純愛という二つのテーマをひとつにつなげたこの作品は、「いかに人間は与えられた環境で一生懸命生きるのか」という、この作品に通底するテーマでつながっていてはいても、やはり物語として分裂している印象がぬぐえなかった。

だが、それは宮崎駿のようなベテランには十分に分かっていることで、
彼は生きている間にこの作品をとにかく何が何でも撮りたかったのだろう。

「風立ちぬ」の中で、いちばん響いたのは、疲れ切って寝込んでしまった堀越二郎を、病床の菜穂子がそっと自分の蒲団の中に入れるシーン。切なく悲しすぎて泣けた。
それから堀越二郎がイタリア人から言われた「創造的な持ち時間は10年。一生懸命生きろ」というセリフ。そんなことを普段から考えていただけに、ぐさっときた。自分の10年はいつ来るのか。そもそも自分でここからと決められるのか。それとももう終わってしまったのか。

過去の作品と比べて、一つの世界としての完成度は及ばないかも知れないが、それでもいい映画であるのは間違いない。

© 2019 Nojima Tsuyoshi