中国の記者が「マルクス主義報道観」をしっかり身につけているかどうか見極めるための試験を受けなければならない、というニュースが流れた。年に1度の試験に落ちたら記者は続けられなくなるという。この「マルクス主義報道観」については、共産党指導部が今年に入ってから新聞、テレビなどのメディア引き締めのためにキャンペーンとして盛んに宣伝してきたものだが、とうとう記者個人にも「圧力」が到達した形だ。

 そもそも中国の記者はゆるやかな資格制を採っている。メディアに属していれば記者証がもらえ、辞めると取り上げられる。メディアが基本的に公的機関なので、その組織が記者の身分を担保するようなものだった。中国の記者はいったん就職したら一生そのメディアで働くことが普通だったので、その制度で間に合っていた。

 ところが最近はメディアの数が増え、商業主義の色彩の強い夕刊紙や週刊誌も多くなり、メディア間の人の移動も活発化した。その結果、従来の組織主導型の記者管理ができないことに当局は頭を悩ましていた。

 そんな記者たちの引き締めに登場したのがこの試験というわけだが、そもそも「マルクス主義報道観」とは何だろうかと調べてみると、要するに「階級主義的にメディアを位置づける」ための考え方ということらしい。

 西側のメディアは商業主義であり、資本家の道具である。民衆のためにあるものではない。だから公平や客観をうたっていても、その報道はしばしば資本家の都合でねじ曲げられる。

 一方、社会主義のメディアは人民の側にあるので、真の意味で人民に服務できる。報道も客観的で、人民のために事実を伝えることができる。そして、メディアの人民的な本質は党の指導によって保証される、という理論づけがされている。

 さらにレーニン、毛沢東などそれぞれの指導者のメディア理論がそこにいろいろな肉付けをしてきた歴史があるのだが、党とメディアの関係性について言えば、メディアは党にとって重要な思想的武器であり、メディアは党の綱領や戦略を理解して報道を行なうべきだということで一貫している。それは、すべてのメディアが中央や地方の党・政府の組織の下に置かれるべきだということで、中国の新聞が「党報」などと呼ばれるゆえんになっている。

 ただ、前述のように中国でメディアの多様化によってメディアが「党の舌」である色彩は徐々に薄まってきていた。何より、「マルクス主義報道観」での党とメディアの関係性の定義は、記者自身や一般大衆の思考と乖離してきている。メディアはすでに厳しい競争環境に置かれており、普段は党の方もどんどん売ってどんどん稼げということで、部数を上げられる編集者や記者を重宝している。

 突然「マルクス主義報道観」という冷凍庫で凍らせた肉のようなものを食えといったところで、食べる記者は誰もいないだろう。せいぜい食べたフリをするだけだ。

 ただ、こうしたメディアに対する思想的な締め付けは、比較してみれば、胡錦濤時代にはあまり見られなかった傾向である。胡錦濤はどちらかというと対症療法的に問題を沈静化させてきた印象があるが、習近平時代になって制度や思想そのものから締め付けるケースが目立つ。このあたりは習近平という人間とその指導部の思考方式を理解するうえで1つの鍵になりそうである。

*国際情報サイト「フォーサイト」に掲載したものです。

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