2013/10/30
「日展が入選を事前配分 有力会派で独占 という記事が今朝の朝日新聞で報じられた。
大変いい記事だと思う。
この件は、記事を読んでいただければいいとして、日本の美術界が総じてこういう談合体質、それが言い過ぎならば、なれ合い体質になっていることは、業界の常識だった。
お互いに作品の悪口を言わない、作品よりは人間関係、作品がある程度水準に達していればそれ以上は詳しく議論しないような体質が、この問題の根底にあることは間違いない。
そして、その体質に乗っかり、その「共同体」の一部になっているのがマスコミである。
日本の新聞には、いろいろな美術や芸術関係の記事が掲載される。
日本の美術も、中国の美術も、西欧の美術も、文化部の記者たちが記事を書く。
しかし、不思議なことに、どんな展覧会も、どんな作品も、内容への批判が掲載されることはない。
例えば、有名な演出家が新作を披露したとする。その内容はたいてい新境地などと報じられ、内容を説明し、あとは演出家の自画自賛の談話をつけるような形である。
美術作品についても、美の極地とか、逸品とか、分かったような分からないような言葉で賞賛し、あとは主催者からもらった報道資料の文字をたてからよこに変えて書いているような気がする。
すべてとはいわないが、多くの文化関係の記事がそのようになっているのは否めない事実だ。
そのため、日本の美術界にはマスコミをたんなる協賛相手ぐらいにしか思っておらず、
真の意味で、作品を時には賞賛し、時にはたたく、そんな批評が存在しないのである。
これは故宮の取材をするようになって、過去の日本のメディアに掲載された記事をひとおり眺めてみて、初めて実感したものである。
これは政治や経済、社会の記事で考えてみれば、むしろ賞賛よりも批判がメーンであり、
問題が起きたときがニュースだという原則が健全に貫かれている。
しかし、文化については、問題があることはニュースではなく、すばらしいことがニュースなのである。すばらしい芸術が報じる価値があることは事実で、文化面も多くはそういう記事でもいいが、
例えば、今回の三谷の舞台は失敗ではないかとか、今回の美術展は宣伝ほどにはいい作品がそろっていないとか、そういう記事もたまにはあっていいのではないだろうかと思うが、いまのところ、全然見たことがない。
日展問題が見せる美術界のなれ合い体質の一部に、マスコミが関係していることも、
この報道をきっかけに考えるべきことではないだろうかと思う。