2014/02/08
書道と書法
昨年から日本を騒がしている芸術界最大の話題は、日本で最も権威があるとされてきた「日展」で、入選や特選に選ばれる作品が、事実上、流派ごとに分配される形で決められている、ということが、明るみになったことである。
日展は大騒ぎとなり、日本政府は日展への補助金一時凍結を決定した。第三者による調査委員会が立ち上げられ、内部調査が現在も進んでいる。
日展のこうした「腐敗」については、以前から芸術界にいる人ならば誰もが感じていることであった。これは日展のみならず、日本の芸術界全般に言えることで、「個性」よりも「流派」を重視し、年功序列や平等が重視される傾向があるからだ。
日本の書道を支えてきたのは「書の利益共同体」とも言える人々だ。
日本では会費を払って書道を学ぶ人々は世界に160万人いるとされる。
書が上手くなれば、自分の師とすべき人がいる団体に会費を払って加入し、日展のような展覧会に参加費を払って参加し、受賞すれば関係者に「お礼」の金品を送らなければならない。
こうした図式は、明治時代以来、多くの書道団体が設立され、それまでは一部の武家に限られて来た書を庶民レベルまで広げていくなかで形成されたものだが、今日に至っては、いささか発展よりも維持を目的とする組織に堕してしまった感は否めない。
同時に私が考えているのは、日本語の「書道」と、中国語の「書法」の違いである。
書を日本人は書道を呼ぶ。基本的に技術から書を学んで行くことに重点を置くもので、何何流という流派がたくさんあって、そのスタイルをどこまで真似られるかが重視される。
一方、台湾や中国の書道界にはこうした流派はまったくないとは言えないが、その縛りは極めてゆるく、あくまでも個としての書家の力量によって、作品を評価していく傾向が強いように思える。
そこには、書はあくまでも個人の内面を表現するものだという前提があり、偉い人の息子でも良い書を書けなければただの人であり、尊敬に値しないという実力主義があるように思える。
考えてみると、日本人は何かと流派をつくる。その流派はたいてい一子相伝で、親から子へ、子から孫へと伝えられている。そしてそれは「道」と呼ばれるものになる。
書のことを中国では書法、韓国では書芸と呼ぶが、日本では書道と呼ぶ。剣の使い方は剣道になり、花の生けかたは華道になる。お茶は茶道。それは何事も「道」と呼べるほどに打ち込みたくなる日本人の精神力を意味すると同時に、与えられたものを守ることに能力を注ぎたくなる日本人の短所をも意味している。
書において、その文字や筆の運びが意味するところよりも、その技をマスターすることを大事に考えてしまう傾向があるのは事実だろう。
そんな日本人の精神風土が生み出した書道界はいま改革を求められているが、改革が必要なのは日本人の心そのものだということも言えるかもしれない。
*台湾の雑誌「今芸術」1月号の連載コラムに執筆したもの(日本語版)です。