文化大革命の「輸出」とカンボジア

 カンボジア出身のドキュメタリー監督、リティ・パニュの「消えた画 クメール・ルージュの真実」を試写会で見た。
 リティ・パニュは1970年代にポル・ポト政権下のカンボジアで少年時代を過ごし、クメール・ルージュ、つまりポル・ポト政権の農村のキャンプに強制移転させられ、家族のほとんどを失った経験を持つ。キャンプを命からがら抜け出し、フランスで映画の道に入り、カンボジアの苦難の歴史に関する多くの作品を発表して国際的に高い評価を受けている。
  *「消えた画」の公式HP。7月5日から上映です。

 クメール・ルージュが支配した「民主カンプチア」時代は、1975年から1979年まで続いた。わずか4年あまりの時間だったが、人類史にも例を見ない大量虐殺や大量洗脳が行われたことは誰もが知っている。だが、当時の状況についての映像や写真は不足しているという。

 本作は、そのリティ・パニュ監督が、手製の100体以上の泥人形を駆使し、記録映像も組み合わせて当時の状況の再現を試みたものだ。表情のない人形によって、かえって当時の非人間的な状況が浮かび上がる。古典的名作「キリング・フィールド」とはひと味違った、カンボジア人の視点からの作品となっている。

 作品の本題からやや外れるが、映画のなかで、2人の中国共産党の指導者がカンボジアを訪問し、ポル・ポトらと会談し、クメール・ルージュの「功績」を賞賛している貴重な映像が流されていたところに興味を引かれた。

 その2人とは、張春橋と、耿飚である。

 カンボジアのポル・ポト派は中国共産党から強い影響と支援を受けながら育った集団だ。ルージュは赤。共産党の色も赤。クメール・ルージュの一連の狂信的な政策は、文化大革命の海外輸出でもあった。1979年の中越戦争で、中国のベトナム攻撃の理由のなかにも、ポル・ポト派をカンボジアから追い出したことが「懲罰」の理由に入っていたことを思い出した。

 張春橋は文革を推し進めた四人組の1人で、ポル・ポト派が1975年にうち立てた「民主カンプチア」の憲法を事実上起草したとも言われている。映像のなかの彼は、非常に興奮した様子で感激を表しており、ポル・ポトと両手を握り合ってから抱擁し、毛沢東の写真を額縁に入れてポル・ポトに寄贈していた。張春橋にとっては、カンボジアは自分の「子供」のような国に感じられただろうし、その喜びようは演技とは思えなかった。

 映画では張春橋と耿飚のカンボジア訪問の日時が説明されていなかったが、1976年10月に四人組は逮捕されているので、それ以前であることは間違いない。

 もう1人の中国人、耿飚は、抗日戦争で活躍した軍人で、おそらくこの時点では党の対外連絡部の部長という身分で、張春橋に同行していたと考えられる。耿飚は四人組の「極左」路線に対して、周恩来と気脈を通じながら抵抗し、路線の修正に努力していたと中国版のウィキペティアである「百度百科」などに書かれている。もしもそうなら、張春橋とは対立関係にあったはずだが、映像からはその様子は当然うかがいしれない。

 その後、ポル・ポト派は政権の座から追われ、中国との関係も薄くなり、1990年代のカンボジア和平とその後の治安回復や復興について主要な役割を演じたのは日本だった。

 しかし、2000年以降は中国の「南進」によって、カンボジアにとっての「後ろ盾」は中国に取ってかわられ、中国から大量の投資も注ぎ込まれた。いまのカンボジアはASEANのなかでも最も外交姿勢が中国寄りの1つであり、日本の外務省のホームページにも「近年は対中国傾斜が顕著に」と書いてあるぐらいだ。

 中国の「文革」の輸出は、数百万人の生命の喪失と国土の荒廃という巨大な災難をもたらしたわけだが、カンボジア人が「歴史」と「現実利益」の折り合いをつけているのは間違いない。

 援助や投資などチャイナマネーへの期待はあるだろう。戦略的に中国とうまく付き合って、カンボジアが伝統的に警戒感を持っている隣国のベトナムを牽制するというバランス外交の意味もあるだろう。中国にカンボジアをサポートさせることで、不名誉な歴史に対して中国に一種の責任を取らせているという風に考えることもできるのだろうか。カンボジアは小国だからほかに選択肢はないというところもあるだろう。一考に値するテーマだ。

★国際情報サイト「フォーサイト」に執筆したものです。

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