先日台北で公開したばかりの九把刀の新作「等一個人咖啡」を観た。今年上半期はヒット作があまりなくなんとなく低迷の感があった台湾映画だが、後半年は期待できる作品も少なくないようだ。そのなかで、最も注目される作品の一つとして満を持して公開された本作。映画館では長蛇の列ができていた。事前の宣伝にもかなりお金をかけた様子がうかがえる。それも九把刀の前作「那些年,我們一起追的女孩」(あの頃、君をおいかけた)の成功があったのことである。
公式HP(中国語)
主題歌、映画の映像もあり
朝日新聞デジタルで私が書いた「那些年」の映画評
本ブログの「復活した台湾映画」での「那些年」の紹介

本作は原作は九把刀だが、監督は「那些年」のときに執行監督だった江金霜に任せている。しかし、映画のいわゆる「風格」は、完全に「那些年」とそっくりだ。ただ、「那些年」よりもはるかに「笑い」、台湾で言うところの「惡搞(悪のりの笑い?)」が多い。笑いが多すぎると感じる聴衆もいるに違いない。

しかし、それはほとんど覚悟のうえで、悪のりの域に達するほど、作り手が楽しんで撮った映画だ。この笑いについていけない人はこの映画を見るべきではないかもしれない。ともすれば「那些年」のイメージが崩れてしまうことになる。しかし、結局のところ、九把刀というたぐいまれなエネルギーをもった台湾人は、「青春」と「悪のりの笑い」にこだわり続ける表現者なのであろう。その意味では「青春」に重きを置いたのが「那些年」で、「悪のりの笑い」に重きを置いたのが本作だと整理することもできる。ただ、どちらの映画にも間違いなく両方の様相は入っている。要するに、バランスの問題なのである。

映画としての評価を問われれば、私はきっと「那些年」の方を選ぶだろう。「那些年」は切なさと笑いでいえば、切なさの方に7割の比重をおいていたからだ。それは好みの問題でもある。一方、本作は切なさと笑いとの比率でいえばむしろ笑いに重点を置いている。そのことに賛否両論あるだろう。

例えば、主人公の若者が好きな大学の後輩の女性の後頭部から、幼いころに予言された現象である台湾ソーセージや豆花が出てくるあたり、何の科学的説明もなされない「無厘頭(ナンセンス」ギャグの領域であり、そこまでの非現実性は「那些年」にはなかったが、もともと九把刀という作家は現実と非現実の境界のような構図の物語に読者を引き込むのがうまい作家であるので、監督を務めていないことでより自分の色を出しやすくなったということが言えるのかも知れない。

このコラムで何度か書いているが、台湾人は「小故事」を撮ることがうまい。その特徴は本作にもよく現れている。中国映画と台湾映画の最大の違いは、台湾映画が歴史や政治などの大状況ではなく、日々の小さな出来事、ささいな変化、そんなものを取り出して、人間の誰もが日々感じている切なさや空しさと結びつけて一つの作品に仕立てるところだ。このことは、台湾という決して大きくない島に、2千万人の人々が肩を寄せ合って暮らすなかで、一つの幸福をどうやって見つけるかを日々考えているかではないかと思っている。

本作は、ひとりの相手「一個人」を「珈琲」の店において「等(待つ」という行為を通じてつながっている三組の男女の物語が絡み合いながら、最後に一つの「結末」に向かって進んでいく構図である。「等一個人珈琲」というタイトルはその内容を端的に表現したものだ。

主役の女子大学生には、若手の宋芸樺を起用した。明らかに顔が九把刀の好みなのだろう、「那些年」に出演してブレイクした陳研希にそっくりである。宋芸樺はすっかり陳研希の後継者とメディアの寵児になりつつある。また、香港のタレント・周慧敏を主役級として起用しているところも多くのファンを引きつけるだろう。80年代から90年代にかけて中華圏を席巻した元祖「玉女」タレントで、歌も演技もそれほどではないが、40代後半にしてその美しさは「美魔女」と呼ぶのにふさわしい。

これでもかと続く笑いのなかに、ともすれば全体像の姿を見失いかけていらだち感じさせられながら、スクリーンに釘付けにさせる手腕は九把刀の監督としての能力が、「那些年」がフロックではなかったことを十分に納得させるものだ。

それにしても、九把刀という作家は、台湾の人々は怒るかもしれないが、ある部分でしっかり台湾を象徴している人物だなというのが私にとっては偽らざる感想である。手軽で、素早く、面白い。もちろんいい意味で。また一つ、台湾を象徴する作品を九把刀という若手の作家がものにしたことは間違いない。

© 2021 Nojima Tsuyoshi