昨日、朝日新聞の新体制が発足したので、一個人としてつぶやきたい。
 慰安婦の訂正記事、吉田調書、池上コラムなど個別の問題についてはさんざん議論されているので、特に付け加えることはないのだけれど、どうしてこんなことになってしまったのか、という問題については、あまりにこれまでの局面が厳しすぎたこともあって、事実関係や責任問題などに議論が集中してしまって、「本当のところ、何が悪かったの?」という点は、朝日の中にいてもよく分からないままでいるような気がしている。
 今回の問題、一つひとつの判断を間違ったのはそれぞれの担当デスク、部長、局長、編担、社長というラインの人たちなんだけど、その間に各部のデスク、編集局ので少ない、編集局長室、経営陣でこの問題を議論したり、検討したりする場はあったはずだ。問題はその間、誰も、それぞれの局面で誤った判断が上から下されたとき、「ちょっと待ってよ。それおかしいよ。そんなこと通るはずないじゃない」ということを、なぜ言わなかったのか、言えなかったのか、ということが、私からすると問題の本質であり、核心であり、いちばん恐ろしいところではないだろうか。
 その声を上げなくさせる何かと闘わないといけないのだが、それが何かのかを言語化することは難しいけれど、逆に言えば、会社にいる人なら、言語化しなくても何であるかは分かっているはずで、人によっては事なかれ主義や出世主義、上の言うことを聞いておいた方がいいとか。
 いってみれば一人一人の心の中に住み着いている「魔」みたいなもので、その「魔」が「ここは黙っておいたほうが得」「面倒なことには関わらないほうがいい」とささやき合った結果、おかしな判断、おかしな記事が大手を降って世の中に出てしまったことなのではないだろうか。実際、声を上げた人もいるかも知れないが、多数の無言につぶされてしまったのか。あるいは、判断するための思考すら「自分の責任じゃないから」と停止してしまっていたのかもしれない。
 要するに、間違ったことに間違っていると言えない組織になっていた、という事なんだろうと思う。中に対しても言えないのだから社会に対しても言えないのは当たり前で、朝日新聞の批判がどこか上滑りしていると社会に感じられてたとするならば、その批判が身命を賭けた迫力のある批判ではなく、どこか「朝日という役割を演じる」ための批判になっていたのではないだろうか。 
 新聞社はよく「第四の権力」などと言われるが、実際のところ、入社試験を通っただけの何の資格もない人間で、たった一枚勝手に刷った「記者」という名刺で仕事をしているだけで、選挙を通った議員さんや、公務員試験に通った役人さん、その他大勢社会で活躍してお金を稼いだり、業績を上げたり、社会を変えたりしている人たちに比べて、何のこともない無資格、無業績の一般人に過ぎない。これは最初に赴任した支局で、デスクに「おれたちは社会で最低の人種なんだから、そのことを忘れたらいかんぞ」と毎日毎日、うるさく言われたことだった。
 そんな人間が、国政や社会に影響を与える仕事をしているのだから、その唯一の支えは「信用」以外にない。それは我々が善人だからとかお金持ちだから信用されているのではなくて、何のタブーや利害関係もなく、間違ったことには間違っていると言える存在だからに他ならない。
 もちろんどんな組織にも出世や利益の力学があって、そういうものも分かりつつ、そのなかでいろいろもがいて生きているんだけど、最後のこの一線だけは何が何でも守らないといけないという緊張感は、常に意識していないといけない。今回、これらの問題に関わった人たちは、みな、そうした「一線」を超えてはいけない緊張感を喪失していたからこうなったという気がしている。
 その意味では、心の中に巣くった「魔」と一人ひとりが向き合わないと、いくら上の人たちの首を取り替えたところで何も変わらないだろうと思う。自分が何を出来るかと言われると朝日の意思決定に関われる立場でもないので正直困ってしまうし、組織人意識の薄い私としては、朝日の改革に自分が率先して立ち上がろうという気持ちはあまりなく、信用を取り戻せるような仕事をしていきますとしか言えないので大変申し訳ないのだが、今回の問題で個人として学んだことは、これからも記者でいるならば、外でも中でも、迷いなく、遠慮なく、いつでもどこでも、自分の信じた正論を言うことができる、周囲からするといささかやっかいな人でいよう、ということである。

© 2021 Nojima Tsuyoshi