$私は書きたい

この映画を書くか書かないか、ちょっと迷っていた。
書けば、かなり厳しい内容になってしまう。
日本に公開されていないのに、あまりそこまで書いても、という気もしたが、
やはり2011年に起きた「セディクバレ」現象とも言えることについて、
台湾映画を考えるうえで、筆をとりたいと思った。

この映画、「海角七号」という大ヒット作を監督した魏德聖監督の作品である。
テーマは、日本の台湾統治時代に起きた惨劇「霧社事件」。
日本人の苛烈な支配に民族としてのプライドを傷つけられ、
闘争のために立ち上がって日本人と戦った高砂族(山地原住民)の人々を描いたものである。

魏監督は、低予算作品で史上最高のヒットとなった2007年の「海角七号」の収益をすべてつぎ込み、さらにあちこちから資金をどうにか調達し、
かねてからの夢であったというこの映画の製作にとりかかった。

魏監督にはインタビューをしたことがあるが、真摯な表情で自分の作品について語る人で、
まじめで実直、好感を持てるタイプの監督だった。

きっと、本当にこの作品を、自分の全能力を傾けて、撮りたかったのだろう。
「コスト観念がない」と言われる魏監督。
セットや美術にあまりに凝りすぎ、あっという間に破裂寸前になった。
キャストとして出演していたビビアン・スーも資金を援助したという。
もちろん、台湾の政府も映画振興のためにかなりの資金を補助していた。
総制作費は7億台湾ドル(約20億円)。
魏監督のこだわりで作品は長大なものになり、上下に分けて、それでも合計5時間近くなった。

上映期間は、先に上を一週間上映し、それから下を上映するという手法がとられた。
私は、メディアの招待客の一人として、上映会で上下とも一気に見る機会をもった。

俳優たちは良かった。特に、原住民の主人公たちの演技はリアルで迫力があった。
しかし、何時間も続くような殺戮のシーンには次第に飽き飽きしてきて、
また、登場人物の精神的な葛藤への突っ込みが甘く、キャストへの感情移入ができない。
話としては単純なのだから、せめて2時半ぐらいで一本にまとめても良かったのではないか。
決して、悪い映画ではない。特に上集は面白くないわけではない。ただ、下集はほとんど30分で終われる話だと思う。全体として上下集みて、総合的には「失敗作」の部類に入るとの私の見方だ。

映画が反日とか抗日とか、原住民の精神を描いたとか、いろいろと高尚な議論を考える以前に、
映画として十分にエンターテイメントになっていなかったと思う。
もちろん、娯楽性を廃した小予算の映画があってもいいが、
この映画は巨額の予算と社会の注視を浴びながら撮ったものなわけで、娯楽性はやはり重要だ。

映画は基本的に観客を楽しませる、喜ばせるために撮るものだと思うが、
魏監督のこのテーマに対するこだわりがあまりにも前面に出ていすぎて、
監督が撮りたい作品を観客に見せつけようという部分が強すぎた気がしてならない。

ところが、台湾映画の振興を目指す政府が全面的に宣伝に乗り出し、メディアでも手放しで映画についてほめちぎったこともあり、映画は台湾で記録的な興行収入を記録したうえ、魏監督は、年末の金馬奨で最高作品賞を受賞してしまった。

私も金馬奨の式典に出ていたが、聴衆の間にはなんとかく「ああ、しょうがないね、賞ぐらいあげとかないとね」という雰囲気が漂い、魏監督がややバツの悪そうな表情を浮かべていたような気がした。

台湾の映画はたしかに復活しており、その復活をさらにグレードアップしてくれるとの期待が、
この作品に対して、台湾の社会、政治、文化などあらゆる方面から押し寄せた。
みんな個人的な会話のなかで「面白くなかった」「上集だけで見るのをやめた」とささやきあったが、
公の場でこの映画についての批判的な評論ができる雰囲気ではなかった。

繰り返しになるが、やはり映画は大衆娯楽なので、いいものはいい、悪いものは悪い、とすっきりと判断されるところがいいところである。大作で客を呼べても、映画としては「失敗作」という評価はあるべきだ。その点において、興業収入も上がって、「正当な評価」を得られなかったこの作品は不幸な作品だったと言うべきだろう。「復活する台湾映画」という時代背景のなかでも、「復活を期待され過ぎて過大に評価されてしまった映画」という歴史的な位置づけになるのではないだろうか。

© 2021 Nojima Tsuyoshi