2014/06/13

その他

今月7日、都内でノンフィクションライターの平野久美子さんがテレサ・テンについて講演したので、せっかくの機会であり、本は何冊も読んでいるが、一度もお会いしたことがなかったということもあり、聞きにうかがった。

平野さん、小柄だけど存在感のあるキャラクターで、上品だけどきさくな人柄。それに、とにかく話がうまい。場のコントロールが巧みで、2時間半以上お話されたのだが、間延びすることなく、最後まで聞き手を引きつけていた。私も今月から来月にかけて、講演や講義が4~5回あることになっていて、そのテクニックというか、コツというか、ちょっと盗ませていただいた。

こっちの方の収穫も大きかったが、話の内容も、テレサ・テンについて知らない情報がたくさんあり、その全盛期から死に至るまでの見続けた平野さんにしかできない講演だった。講演後にふるまわれた台湾料理も、カラスミや魯肉飯は大変美味しく、料理やお茶にも詳しい平野さんならではの講演会だった。
 講演の内容のはざっとこんな内容。面白くてけっこう詳しく記録した。明日土曜日午後2時から平野さんは、神保町の岩波セミナールームで、テレサテンについて講演するので、おすすめである。

「テレサがチェンマイで死んで今年で20年目。当時は謀殺や麻薬中毒などいろいろ噂が流れたが、ワードショーでの取り上げ方をみても、テレサの日本での認識はこんなものかとがっかりしたことを覚えている。1983年にテレサと初めて知り合った。パスポート事件を起こし、しばらく日本から離れていたが、当時マガジンハウスの平凡で働いていた私は、平凡最後の号なのですが、テレサの香港リサイタルを書くことになった。テレサのトーラスレコードが、カムバックを演出しようとプレスツアーを組んで、そこで初めてテレサと知り合った」

「そのとき、本当にアジアのスターなんだと思った。私たち日本人が思っているカタカナのテレサ・テンと、漢字の鄧麗君では違うんだなと実感した。マイケルジャクソンのファイヤーまで歌った。ただテレサは日本のバンドにはこだわって、日本からフルバンドを連れていった。当時の日本は、楽器もアレンジもアジアでナンバーワンだった」

「テレサの家族はスワトーから船で1949年に渡ってきた。そのあと、1950年には高雄、1951年には宜蘭、1953年には雲林で暮らし、そこでテレサが生まれた。そのあと1961年に台北郊外に移った。父親は大陸では軍人だったが台湾ではいい仕事につけず、雑貨店でまんじゅうなどを売っていた。これも外省人の一つの姿だと思う。外省人の高級軍人はこんな苦労はしない。テレサは外省人ではなく、外省人二世。彼らはアイデンティティの問題が出てくる。どうしても台湾になじめない」

「当時の台湾では北京語歌手の育成が国策だった。テレサは政府にとってとても使い勝手がよく、東南アジアの華人地域に派遣されて、国民党の落人がいるようなところに歌いにいった。北京の上手な発音ができる人は本当に少ない。国民党政権の申し子のようなものだ。中華民国のミュージックアンバサダー。最初はそこからステイタスを得ていった」

「テレサは天安門事件のときに香港で歌ったあと、民主のジャンヌダルクになるかと思われたが、そうはならなかった。純粋な人だったので心がガラス細工のように弱かった。戦車に押しつぶされる夢をみた。心が折れて耐えられなくなり、フランスに渡った。フランスでは午前中はベルリッツでフランス語を学び、午後はピアノの練習やボイストレーニング、週末になるとフランス人の彼氏と好きだった南フランスに旅行にでかけた。かなりの浪費生活だったと思うが、彼女の生活費は日本の三大ヒットの印税によって支えられていた。日本はちゃんとお金を払うところだったから。でも私はそれぐらいいいと思った。長い間、6歳のころから歌ってきて、浪費ぐらいしたっていい。次のステップまでの準備じゃないかと」

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