2014/09/14
台日作家交流イベント「日本統治時代・台湾(1895-1945)を生きる、書く」が、このほど、二日間にわけて開催されました。初日は西荻窪の旅の本のまど書店と、二日目は拓殖大学で二日連続で開催され、どちらも会場が「爆満」になるぐらいの大盛況のうちに終了しました。
初日は聴衆として楽しませてもらい、二日目は、司会兼スピーカーとしても参加させてもらいました。
イベントの情報はここ
ゲストの方々、日本在住の台湾人作家・温又柔さん(金曜日のみ)、台湾の台湾文学研究の大家・陳芳明さん、若手の人気作家・甘耀明さん、植民地文学などにも造詣の深い作家の黒川創さんのお話がどれも三者三様で面白く、また、橋本さん、天野さんの通訳もすばらしく、大変聞いていて勉強になりました。
二日目のお話を記録として書いておくと、皆さん、こんな発言がありました(ごく一部ですが)。
陳芳明さん
「戦後も台湾から日本は遠い存在だったが、それでも記憶や言葉の面でとても近い存在だった。父母は日本語教育を受けた世代で、二人でこっそり映画を見に行くとき、「エイガ、エイガ」と日本語でいって分からないように出かけていった。また、私の妻の母は日本人だったが、結婚する前に彼女の帰りが遅くなってしまったことがあり、大変、彼女を怒らせたことがあった。私は日本語で「kンドダケユルシテクダサイ」と言ったら許してくれた。私は228事件や日本時代のことについて、1965年に米国に留学するまで何も知らなかった。それから台湾の民主化の運動に参加し、ブラックリストにのって台湾に帰れなくなった。父は私のことを許そうとはしなかたったが、1992年に台湾に戻り、最初は民進党で広報主任を務めたが、その後、アカデミズムの世界に戻ったら、父からようやく理解を得ることができ、亡くなる二年前の1998年に「お前がやってきたことがようやく分かった」と言ってもらった」
甘耀明さん
「台湾には日本の精神的な文化がいまもたくさん残されている。日本語にない日本語もある。有名なのは頭コンクリートで、頭が固いということで使われている。自分の祖父は、戦争中に労働奉仕で高雄の工場で働いたことがあったが、彼にとっては忘れられない思い出だ。あるとき少年工として日本に行った高座会の人たちとは、以前、台湾の温泉旅館でたまたま一緒になって日本語で楽しそうに話していた。花蓮に開拓にきていた人たちは、戦後、自分たちが住んでいた家を訪れて、コンクリートの壁が残っていたことを見つけて自分たちの生活がそこにあったことを確認できて感動していた」
黒川創さん
「坂口䙥子という作家がいた。台湾に渡った日本人に嫁いで、日本の台湾統治の末期に多くの作品を台湾文学などに発表した。彼女はとても優しい目線で台湾を描いた作品を残している。また、エロスという部分でも人間に興味を持っていた。「台湾文学」に1941年に「時計草」という作品を発表しているのだが、最初の1ページだけ掲載されてあとは削除されている。霧社のことを書こうとしたのではないだろうか。戦後も「蕃地」にこだわって書き続けた」
なかなか十分に思い出せないところもあるのですが・・
私のほうは「台湾と日本、あの50年」というタイトルで、日本統治の50年について考えるいろいろな視点について問題提起をさせてもらい、何人かの方に終わったあとにパワポの資料をお願いされました。
総じていえば、陳芳明さんの「人間は歴史の産物である」という言葉をかみしめる内容だったと思います。より詳しい内容は聞文堂さんに後日、サイトなどで紹介いただけるでしょう(笑)。