2025/06/12
京都の郊外にある龍谷大平安ボールパークを訪れてきました。本当だったらアポ無しでは入れないところでしたが、守衛さんがすばやく学校に許可を取ってくださいました。感謝。
西本願寺派の平安高校が野球の名門になったのは花蓮出身の3人の原住民選手たちの活躍によるものでした。花蓮で布教を担っていた武田という布教士が能高団という原住民だけの野球チームの活躍に注目し、将来の布教士含みで、ロードフ、キサ、アセンという3人を、平安中に入れたのです。彼らの活躍で平安中は1927年の夏の甲子園に初出場でベスト8(松本商に敗北)に進出しました。それまで弱小だった平安中はみるみる強豪として知られるようになり、各地から優秀な選手が集まるようになり、松山商や中京商などと並んで一気に常勝軍団となります。嘉義農林は甲子園でこの平安中や松山商や中京商と激闘を繰り広げました。能高団が日本遠征で予想以上の成績を収めたのが1825年。今年で100周年になります。優勝碑に比べると小さいですが1927年のベスト8を記念する小さな石碑が芝生の上に立っていました。1985年版の平安野球部史には、この台湾人選手たちの活躍が詳しく書かれているのに、2008年版の野球部史では台湾人選手のところがかなり削られています。理由は不明ですが、野球部の発展に多大な貢献があった先人への扱いとしては残念なところです。記述の復活を希望しています。