2011/09/28

中国

 昨日上海で起きた地下鉄事故では、人々の脳裏には7月23日に起きた中国高速鉄道のことが甦ってきたはずだ。誰もが「また?」との問いを発し、前回と同様に信号機の故障ということもあって、中国の列車運行能力の精度については疑問の声が高まるのは間違いないだろう。
 中国の高速鉄道事故については問題点がいろいろありすぎて議論が集約しにくい感じもあった。高速鉄道技術の問題、鉄道部という役所の体質の問題、それからメディアへの報道規制やネット規制の問題。どれをとっても、中国という国家が成長の中でかかえたひずみを象徴しているものだから、何を取り上げても面白く書けてしまい、逆に、どの点に注目して今後の事態の推移を見守っていくべきなのか、日本のメディアも必ずしも整理をして報道していないような印象だった。
 そのなかで、個人的に興味深く感じたのは、今回の事故では中国においてかつてないほど人命への尊重と、犠牲者の声が社会全般に広く語られたことだ。
 共産党による中華人民共和国の建国後、歴史的に重大事故や自然災害のとき、英雄物語や美談がまず前面に押し出され、犠牲者の家族や友人たちも「困難をいかに乗り越えるか」のシナリオに沿って言葉を発することに集中させられ、死者への哀悼や行政や企業への批判は抑え込まれる傾向にあった。
 しかし、今回は最初から最後まで、遺族たちの声は内外のメディアを通じて幅広く紹介され、当局の情報統制もこの点についてはかなり緩められているようだった。
 最近訪れた北京で、「三联生活周刊」という雑誌の表紙に目がとまり、中身もあまり確かめずに購入した。

$私は書きたい

黒い表紙に白く浮き上がる鉄道のレール。タイトルには「7・23事故追問 人的問題」とある。てっきり事故原因が高速鉄道の人的ミスにあることを検証した内容かと思ったが、実際はそうではなく、被害者や被害者の家族一人ひとりに丁寧に追跡取材を行い、それぞれの状況を深く掘り下げて報道したものだった。
最初の期待は裏切られたが、読み進めるうちに面白くなって、最後まであっという間に読み終えてしまった。

 強く感じたのは、日本にける災害報道での被害者取材と、基本的には同じ手法と同じ目線で、彼らが取材し、記事を書いていたということだ。
 政治体制は変わらずとも、人間の気持ちが変われば、それが政治に対する大きなプレッシャーになって、緩やかに政治による締めつけを変えていくはずである。そう思うのはあまりに楽観的過ぎるだろうか。しかし、大衆の支持を完全に失えば一党独裁体制といえどももろく崩壊してしまうことは歴史が証明している。
 中国の人々が今回の事故で国家の戦略などよりも、家族や友人の命を大切に思い、悲しみの感情を共有する土壌が広がっているような気がする。中国の問題点ばかりが見えた今回の高速鉄道の事故だったが、その点だけは、不幸中の幸いというか、未来に何かを期待させる材料だったと思う。

© 2024 Nojima Tsuyoshi