新聞は、やはり人が作るものなのだと思う。
 新聞を言論と言い換えてもいい。日本では、朝日新聞は、とか読売新聞は、というように、メディアを人格化して、そこにあたかも一つの明確な意見や意思があるかのように書かれることが多い。

 だが、実際は、新聞は個人の巨大な集合体であって、その完成品である新聞は、一つの製品というよりも、記事のデパートであるといった方がいいと思っている。

 なぜなら、一つの記事は一人の記者が書くもので、会社が書くものではないし、アイフォンに込められたアップルの意思は一つだが、それと新聞は違うからだ。

 震災当日の朝刊各紙を読み比べたところ、読売新聞の紙面づくりが圧倒的に勝っていた。特に、一面の文章、レイアウト、写真どれをとっても、311から一年という日の新聞としては、ベストの出来映えを示していた。

 この日の読売の一面は普通の新聞とまったく違ったコンセプトで作られていた。
その時点で、読売は違っていたのだろう。東北のどこかで、海のそばに置かれた慰霊碑を前に、祈りを捧げる二人の女性。降りしきる雪の白さ。この写真で一面すべを覆い、そのトップの位置に普段は一面の底にある「編集手帳」が、普段よりも長い文章で書かれている。この文章がまた素晴らしくて、読みながら、涙がこみあげてくる。

 「使い慣れた言い回しにも嘘がある。時は流れる、という。流れない「時」もある。雪のように降り積もる」

 こんな書き出しで、震災をめぐる我々の認識を問いかけ、被災地の人々の心を読み取り、「人は優しくなったか。賢くなったか」と日本と永田町の現実を嘆いている。
 文章には愛情があり、感性があり、批判があって、理想の巻頭エッセイだと思う。

 ほかの新聞はおしなべて「事実」と「提言」に偏って、言葉では被災地に思いを寄せてとは書いているが、この報道の洪水のなかで、心に響くものにはなっていなかった。

 その点、読売の一面は、少なくとも読者の心に一日以上は続く何か楔のようなものを打ち込んでくれるものだった。

 これはきっと読売新聞の意思というより、記者、編集、整理、デザインなどかかわった数人の努力のたまもので、その意味で、読売のこの日の新聞は、メディアが個人の所作によって支えられていることを示したものだった。ぜひ読んでみて欲しいと思う。
 

© 2024 Nojima Tsuyoshi